2021年11月23日(火)、「幸福の科学と2世問題」というテーマで「カルト問題学習会(仮)」が行われ、第3回目にして初めて個別の団体の問題がメインテーマとされました。
登壇者の一人として参加させて頂いたので、当方のコメント部分のうち差し支えない範囲を、雑駁ではありますが備忘録的に一部整理し直して残しておきたいと思います。
カルト問題学習会(仮)「2世問題が注目される中、幸福の科学2世に関するエピソードが一般メディアで紹介されるケースはほとんどありません。しかし2世自身によるSNS等での発信は、他団体と同様に活発になっています。幸福の科学は、教団独自の中学高校のほか、無認可の大学のようなものも開設していることで、2世にとって他団体とは少々違った事情も発生しています。12年にわたり幸福の科学を取材してきた藤倉善郎の発表と、元信者Aさんのコメントを足がかりに、この団体固有の2世問題について考えます」
第3回カルト問題学習会は「幸福の科学」「2世問題が注目を浴びる中、手記の出版やNHKを中心とする大手メディアによる特集では、ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)や統一教会(現・世界平和統一家庭連合)の2世の体験等が紹介されるケースが大半で、幸福の科学について語られる場面が少ない。しかし幸福の科学には他教団と違う構造の2世問題があり、当事者によるSNS等での発信もある。今回は、この幸福の科学の実情を知り考えることで、団体ごとの違いと共通点を再確認したい。また今回は、コメンテーターとして幸福の科学の元信者の方にも登壇していただく。これを足がかりに、今後、特定の団体について当事者を交えた議論の場という側面を強化していきたい」やや日刊カルト新聞 藤倉善郎氏【今回の学習会の趣旨】上記の「カルト問題学習会」や「やや日刊カルト新聞」のコメントにもある通り、特に本年はカルト宗教2世問題への関心が高まった年であったと思います。但し、「幸福の科学」の二世問題については、清水冨美加さんや大川宏洋さんなどの件で一時的にスポットが当たっても、そこから先の社会的な議論が深まる状況にはなかなか至らない部分があります。
その所以を、「エホバの証人」や「統一教会」などとの団体ごとと比較して整理しながら、「幸福の科学」特有の他とは構造の異なる教団とその2世問題について検討しようとするものです。
【幸福の科学の二世問題の認識を広げる難しさ】「この20年、活動信者が増えていない」
教団幹部であった大川真輝(大川家次男)の言葉ですが、現在の教団内部の信者構成は、初期に入会し高齢化した親の世代と、その子供ら(二世)という構造で、その中間にポッカリ空白がある状況です。
これはひとえに、世間の教団への評価が既に定まって揺るぎないものとなっているからでしょう。その理由としては、先ずは主として90年代に起こしたフライデー事件やスラップ訴訟など反社会的な問題行動などがインパクトを与え、またこれらの記憶が風化した後でも、次々と繰り返される有名人霊言やマンガ的で奇妙な言動の数々が、感覚にストレートに訴えるかたちで、「近寄ってはいけない人たち」というシグナルになっているからだと思います。
これは教祖を筆頭に教団の自業自得であり、社会的にそうした眼が養われているのは結構なことではありますが、外形的なハチャメチャぶりからくるカルトとしての分かりやすさと裏腹に、その被害、本質的な問題点への理解が促進されず、また可視化されにくいと言うのが幸福の科学問題の特殊性と考えています。
当事者の二世の方の場合は別として、幸福の科学の問題に取り組む支援者の立場からすると、幸福の科学の二世を取り巻く問題を論ずるには、先ずそもそもの元凶である幸福の科学の問題性についての説明をどうしても避けて通れません。
比較的温和で人畜無害に見えた最初期から、教祖である大川隆法による神託結婚の強要や、離反者や反対者への激しい排斥、吊るし上げなどといった、様々な人権侵害に象徴されるカルト性の芽が存在していたこと、また元々は協調や友和を志向して、自己研鑽の目的で入会した者たちが、いかにして排他性や攻撃性を発揮する、良識の通じない愚鈍化した人格に変容していったのかということ。
特に人格変容の部分には、幸福の科学的な心理操作の実際、カルト性の問題が潜んでいて、ある意味で凄いサンプルだと思われ、個人的には入念な考察に値するものと考えていますが、大体が表面的な分かりやすい事象だけで事足れりとされ、なかなか深い理解の機会に恵まれません。
一般社会にそこまで望むのは酷かと思いますが、メディアや研究者の方には、この先少しずつでも同じ視座に立って下さる方を求めていくことが自身の課題のひとつだと思っています。
【他教団の二世問題との共通点と差異】私自身が幸福の科学の二世問題を漠然と意識したのは、91年から92年の職員時代で、親に手を引かれて集会にやってくる子供たちに、親が大川の絵本を読んだりして、信仰の対象としての擦り込みが始まっていたのを、将来どうなるのかと案じていたところからです。
幸福の科学学園の問題が表面化した頃、実際の二世の方々とご縁が生じたのをきっかけに、いよいよ過去の危惧に直面して予想をはるかに超えて深刻な被害になるという実感を得ました。
幸福の科学の二世問題を考える手掛かりのひとつとして、他教団の二世との差異を私なりに考察してみるとすると、教義上の二世信者への根本的なスタンスの違いがあるように思います。
自らの信仰以外の外的世界を見下したり否定して内集団に囲い込む部分は同じですが、二世の問題を考える時、対照的と思われるのは、エホバや統一教会など、生まれながらに原罪を背負わせて罪悪感を植え付け、その浄化や解放のために洗礼に導いたり、活動に専念させるというかたちではなく、基本的に子供や若者は専ら教祖の理想実現のために教団や世界を牽引していく存在(ゴールデンエイジ)という考え方であったことです。
統一教会における「祝福二世」の概念と一見似た感じですが、幸福の科学には、そこそも「信仰二世」と「祝福二世」のような差別化はなく、それぞれの二世の婚姻にかかわる差のような“しがらみ”もないので、これは初期からの幸福の科学のカルチャーと言えるものかと思います。
その背景とは、私は教団初期の伝道期に会員の間で共有された想いに根源があるように考えています。
元々幸福の科学は、表向き穏健な単なる学習団体で、「内から外へ、土台から柱へ」という理念で、安易な対外伝道などむしろ戒める姿勢で、そもそも宗教でもありませんでした。
それが90年5月に豹変して大伝道を命じる状況になりました。ここで伝道の煽動に用いられたのが、世紀末の危機認識。またオウムや創価学会を敵として、その覇業から世の中を守らなければならないという恐怖アピールテクニックなどです。
そして、霊的世界では既に実現していることでも、この世的に実現させる、しかもスピードをアップするには、とりあえず一時的な方便、「この世的」方法論を駆使してでも救世運動を拡げ、内容は後から高めれば良いなどといった理屈で、会員を様々な活動に駆り立てていきました。
当時の教団は、地域ごとに基本組織・壮年部、婦人部、青年部、学生部といった部門が縦糸と横糸になったかたちで組織化されていて、日常の活動の主体は婦人部と青年部が占めていました。
元々は学習団体であったものが、いきなり保険会社の営業や新聞勧誘ばりに昼夜も分かたぬ活動に駆り立てられることになり、ここで離れて行った者も少なくない反面、中には学習は苦手だけど、そうした活動は好きというお祭り闘争好きの者も現れましたが、多くは、いったん自己選択したものへの一貫性と、主体性が動揺した状態で認知的不協和に晒された状況から、「先生には深いお考えがあるに違いない」という思考停止に繋がって、迷いつつも活動していた状況であったと思います。
伝道目標という実質的なノルマが課され、講演会チケットや献本用の大量の書籍の買い取り、プレゼント伝道からやがて無承諾伝道など、キチガイじみたノルマ達成の様々な取り組みに投入されていたのです。
だから婦人部や青年部の会員には、本来の理想的姿ではないという後ろめたさ、アコギなことをやっているという気持ちが芽生えていて、せめて学生部は巻き込まないという空気が造成されていきました。これは当時の活動現場で実際に交わされていた言葉で、「学生は純粋だから傷つけないように」と言い合っていたものです。
幸福の科学には、「光の天使」と「光の戦士」という言い方があります。
多次元の霊的世界の構造という教義上の区分で、一定次元以上の霊格を備え、それぞれ「使命」を有するとされている者を「光の天使」といい、一方それ以下でも今世努力して昇進もありえる現地徴用兵のような者を「光の戦士」としていました。
この辺は幸福の科学がGLAのパクリであるのを物語る部分でもありますが、「光の天使にはなれないが、戦士にはなれる」、天使の露払いに戦士が汚れ仕事を引き受ける的な意識で学生部をかばっていた状況が実際にありました。
こうした環境ゆえ、例えば信者の親に顕著な愚鈍化が進行するとか、親と子ほどの若い職員に手を付けて再婚するといった教祖自身の醜聞に接して生理的な反発心が育まれるなどといった個別的な事情が生じたりせず、外的な評価にも晒されないでいると、無批判に教団への帰属意識で満たされたままで、幸福の科学の二世に気付きのきっかけはなかなか恵まれないと思います。
他集団の中でもあることと思いますが、特に幸福の科学の場合は、内集団という箱庭から外的世界に接して初めて急激に煩悶が生じるわけです。
その際の葛藤は大きいです。生来の身に付けてきたものが何ものでもなかった空虚感は計り知れない苦しみだと思います。戻る自己がなく、五里霧中のなか自らの育て直しを手探りで行わなければなりません。
そして自立しようにも幸福の科学が具体的に足枷となり、孤立して社会的に生存権を脅かされる状況に追い込まれてしまうことさえあります。
幸福の科学の二世問題は今まさに萌芽期であって、事例として表面化しているものは今のところ限られていても、当事者の人生に落とす影の深さ、ダメージの大きさは現実的な問題として甘い見積では通用しません。今後これに数量的な側面が加わった時、社会はその波を受け止めるのに相応のコストを払わねばならなくなるでしょう。
【その他】以前にある弁護士さんと、幸福の科学の事例を示しながらカルトの定義について話した時、「とりあえず人を殺していなければ良いのではないか」といったことを言われたことがあります。
幸福の科学について「議論のある団体」と明確に認識しながらも、カルトという定義をためらう。カルトの定義について極力慎重でありたいという文脈での発言でありましたが、霊感商法対策等に関係する人にさえ、中にはまだこんな程度の現状把握の方もいるのかと、正直その際は少々落胆しました。一体この先まだどれだけ言葉を尽くさねばならないのかと。
幸福の科学へのカルト性の評価を殺人の有無によって躊躇する態度の妥当性も不同意ですが、そもそも信者を社会と乖離させ、絶望感によって結果的に自殺に追い込むような教祖は人殺し同様だと考えられないものでしょうか。
カトリーヌ・ピカールさんフランスの反セクト法(無知脆弱性不法利用罪)の制定に尽力されたカトリーヌ・ピカールさんは、2015年に「日本脱カルト協会」の招きに応じて来日され、「フランスのカルト対策:発展と課題」と題された講演において、「セクトの問題は宗教の問題ではなく人権の問題」であると言われ、人に害を与え、人を幸せにしないセクトの、基本的人権と自由への侵害から個人と公共の利益を守るという、アメリカ型の個人の自由を尊重するものと対照的な積極的な福祉の概念を披露して下さいました。
こうした積極的な態度にも、もちろんバランスが重要なのは言うまでもないことですが、私も本人が幸せなら他人が口出しすることじゃないという一見物分かりの良さは、実は物分かりが悪いんじゃないかという考え方です。
首根っこ掴んで辞めさせるとか、ディプログラミングのようなことは良くないし効果もないものとして厳に慎むべきことと考える一方、個人の選択、自由意思の尊重を隠れ蓑にした沈黙は卑屈な責任の放棄でしかないと、私自身は考えています。
カトリーヌ・ピカールさんは、その講演の最後で、来場者から遅々とした日本のカルト対策を促進するためのアドバイスを求められた際に、フランスもセクト規制法に至るまでにはモンテスキューの時代から数百年を要していることを引き合いに、やんわりとした口調で性急さを戒められました。
幸福の科学の二世問題も、まだ始まったばかりで、当事者の方々にとって焦りや苛立ちが募る部分が少なからずあること察するに余りありますが、急いては事を仕損じるものです。だからどうか、「モンテスキューの時代から」の気持ちを共有して頂ければと願っています。